2026/01/05
タグ・ホイヤーが「究極の遊絲」を実用化。カーボンの限界に挑んだ、10年越しの物語
時計業界は長年、「複雑機構=高級」という図式が支配していました。しかし、時代は変わりつつあります。
今やコレクターたちが熱く注目するのは、むしろ「素材の革新」です。誰もが手を出せる複雑時計ではなく、技術的限界に挑戦する「パイオニア精神」を持つブランドに、人々の関心は移っています。
今回、その最前線でまさに「爆音」を立てたのが、タグ・ホイヤー(TAG Heuer)です。2025年のシーマスター・デー(日内瓦時計日)で発表された「TH-Carbonspring(カーボン複合素材遊絲)」。これはもはや「革新的」という言葉すら陳腐に感じる、時計史を塗り替える可能性を秘めた技術です。
今回は、この「黒い遊絲」がなぜここまで時計愛好家を熱狂させるのか、その核心に迫ります。
遊絲とは何か?時計の「心臓の鼓動」を司る
まず、なぜ時計メーカーは遊絲(ヒゲゼンマイ)にこれほどこだわるのか?
腕時計の心臓部である「脱進機」において、「テンプ」は心臓と例えられる一方、「遊絲は血管」です。この細くもろい螺旋状の部品が、収縮と膨張を繰り返すことでテンプの振動数を制御し、その結果、時計の精度が決まります。
かつては金属製が当たり前でしたが、温度変化や磁気、衝撃に弱いという欠点がありました。そこで近年、シリコン(Silicon)遊絲が登場。酸化層により温度変化に強く、非磁性体であるという利点から、高級時計のスタンダードになりつつありました。
しかし、シリコンにも弱点があります。それは「脆さ(もろさ)」です。落下衝撃に弱く、万が一破損した場合はほぼ交換必須。また、シリコン特有の特許技術が大手メーカーに集中しており、業界全体がその縛りを受けているという側面もあります。
そこでタグ・ホイヤーが選んだのが、「カーボン(炭素)」という選択肢でした。
10年の歳月と、6年の改良。カーボン遊絲の真価
タグ・ホイヤーのカーボン遊絲開発の歴史は、決して平坦ではありませんでした。
2019年: 初代カーボン遊絲を搭載した「ナノグラフィー(Nanograph)」を発表。
しかし: その当時の技術では、長期的な安定性や量産体制が整わず、一時は幻の技術となってしまう。
しかし、諦めなかった。そこからさらに6年。タグ・ホイヤーのエンジニアたちは、ラボにこもってこの素材と向き合い続けました。
そしてついに完成させたのが、今回の「TH-Carbonspring」です。この遊絲は、垂直に並べられたカーボンナノチューブをベースに、特殊な化学プロセス(CVD法)で炭素を注入・硬化させることで成形されています。
この技術が解決したのは、以下の3つの「強さ」です。
超軽量(Lightness): カーボンは金属の半分以下の比重を持ちます。これは機械式時計において、「慣性モーメントの低減」を意味します。つまり、動力伝達がよりスムーズになり、消費エネルギーが少なくなる。結果、精度とパワーリザーブの向上に繋がります。
衝撃に強い(Shock Resistance): 実験では5,000Gもの加速度にも耐えるというデータが出ています。これはシリコン遊絲が苦手とする「衝撃」に対して、極めて高い耐性を示しています。
防水・防湿構造(Hermetic): 過去の課題であった「湿気の吸収」を克服。表面に特殊な被膜(パッシベーション処理)を施すことで、水分や油分を弾く性質を持たせました。
モナコ vs カレラ。2つの「黒き傑作」を読む
この革新的な遊絲を搭載して登場したのが、タグ・ホイヤーの2大看板シリーズです。
① モナコ(Monaco) TH20-60 フライバッククロノ
「レーシングスピリットの極致」
スクエアケースのアイコン、「モナコ」にこの技術が来た意味は大きい。今回搭載されたTH20-60自動巻きムーブメントは、フライバック機能(計時を止めずに即時リセット)を備えた、レースシーンに最適化されたモデルです。
カーボンケースとカーボンダイアルの渦巻くような繊維模様は、まるで遊絲そのものが表盤から飛び出してきたかのような錯覚を起こさせます。また、COSC(コンクール・ド・ショモジュール)の認証を取得していることも見逃せません。
② カレラ(Carrera) Extreme Sport 陀飛輪
「身近になった最高技術」
そしてもう一つが、この「カレラ・エクストリーム・スポーツ 陀飛輪」。価格帯を従来の高級ブランド陀飛輪時計の半分程度に抑えることで、タグ・ホイヤーは「誰もが手に入れられる陀飛輪」という新たなカテゴリーを確立してきました。
今回のモデルは、そこにTH20-61ムーブメント(自動巻き二針+計時+陀飛輪)を搭載。カーボン遊絲の軽量性が、複雑機構である陀飛輪の駆動効率を支えているのです。
なぜ、このタイミングで「カーボン」なのか?
タグ・ホイヤーのCEO、アントワーヌ・パン(Antoine Pin)氏はこう語っています。
「私たちは新たなシリーズを作るよりも、『既存のアイコンに最新技術を注入する』ことを選択しました。モナコもカレラも、タグ・ホイヤーの遺産です。その遺産を、科学的な探求心で進化させることに意味があるのです。」
確かに、近年の時計業界はどこか「過去の復刻」に安住しすぎていたかもしれません。しかし、タグ・ホイヤーは違います。彼らは今もなお、「時計はまだ終わっていない」ということを、この黒い遊絲で証明したのです。
まとめ:時計の「脱・金属」時代の到来
今回の発表で、時計の遊絲材質は以下の3つに集約される時代が来ました。
金属合金(Nivaroxなど):伝統的で修飾が美しい。
シリコン(Silicon):精密で磁気に強い。
カーボン複合素材(Carbon Composite):軽く、強く、衝撃に強い。
タグ・ホイヤーは、この第3の選択肢を現実のものにしました。
今回発表された2モデルは、いずれも50本限定という希少性。しかし、これが今後のスタンダードなムーブメント(TH20シリーズ)に順次採用されていくことを考えると、この技術がもたらすインパクトは計り知れません。
時計は、これからも進化し続ける。その証人となるのが、この「TH-Carbonspring」に他ならないでしょう。